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県指定史跡「中村城」案内図

県指定史跡「中村城」案内図

  • 中村城下地図(写)
  • 中村城とは、別名、馬陵城とも呼ばれています。昔、この地は天神山といわれ、中世にはその一部に館が構えられたこともありました。1611(慶長16)年、相馬利胤が築城して小高城から移り、以後、明治初年に廃されるまで、260年にわたる相馬氏歴代の居城として、藩政の中心となりました。本丸のまわりには郭、濠、溜池、土塁、空濠などをめぐらし、二の丸を東、西、南、北に、三の丸を東、西、北に配し、さらに岡田塁(岩崎塁)、円蔵郭、蓮池などをおき、この城をより堅固なものとしました。本城跡は、築城当時の姿をよく残しています。また、昭和30年2月4日に県指定の史跡に指定されました。

 

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  • ①東三ノ丸(御厩)
  • 東三ノ丸は、通称御厩(おんまや)といった。もとは重臣泉氏の屋敷であったが、後に南二ノ丸から馬屋(厩)が移され、御厩別当 馬場氏が代々住んでいた。1698(元禄11)年に、西端に番所が設けられ、大手門を守る番士が昼夜詰めていた。
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  • ②外大手一ノ門
  • 相馬義胤が武蔵(埼玉県)川越城城番のときにその城門の堅固なのに感心し、それを模して作らせたといわれる。1649(慶安2)年の完成である。
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  • ③中ノ門跡
  • 外大手一ノ門同様の構造である桝形があり、その中に楼門造り(二階造り)の門があった。1648(慶安元)年に建てられ1826(文政9)年棄却された。 桝形とは…城門の内(内桝形)か外(外枡形)に、土塁・石垣で囲った四角形の空間
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  • ④南二ノ丸(長友)
  • 通称、長友といい、重臣の屋敷や馬屋(厩)などがあった。後に、馬屋が東三ノ丸に移されると、その跡に、常小屋(営繕所)が造られた。南側の土塁には、かつて合横矢の構えがみられ、東側の土塁も南側の土塁に接続していた。また、慶長の築城のとき、北側の内堀の際に、数十株の桜木が植えられ、以後たびたび補植され、今日に至っている。東隅には、外天公(長門守義胤)が自ら植えたという「外天桜」があった、(近年、その跡地に若木が植栽された。) 合横矢…城に近づく敵を両側面から射撃するためのコ字状の塁線。長友の名称は、『和名抄』の長伴と考えられる。
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  • ⑤本丸鉢巻石垣及び内堀跡
  • 本丸の切岸(崖)は急斜面で、中段より上に鉢巻石垣が一周している。1611(慶長16)年会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれている。石材は、川石の自然石に割石を混ぜ、石材の小面を横に据える野面積みである。上下の石が奥でかみ合うため□があき、明暗が生じて自然にとけこんでいる。石垣は、浜通りでは平城と中村城のみである。本丸南面切岸の下は内堀跡で、一部西端に遺存する。

 

  • ⑥東二ノ丸及び丸土張
  • 東二ノ丸は、古くは中館ともいわれ、ほぼ現在の二の丸球場にあたる。1674(延宝2)年から1783(天明3)年ころまでは御殿があり、藩主の私邸となっていた。西側の丘陵東端は丸土張といわれる馬出しであった。
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  • ⑦本丸及び天守閣跡
  • 本丸御殿は、現在のフジ棚を取り囲むようにあった。現在も諸所に礎石や庭園の配石の跡が見られる。また、三重の天守閣は、築城時の1611(慶長16)年、本丸西南隅に建てられたが、1670(寛文10)年落雷で焼失し、以後再建されることはなかった。本丸跡中央の相馬神社は、明治13年に相馬氏の祖の相馬師常を祭神として創建されたものである。
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  • ⑧西二ノ丸(西館)及び籾蔵門跡
  • 西二ノ丸は、古くは西館と呼ばれ、相馬利胤が中村城に移る前、後の盛胤が隠居したこともあった。利胤が本拠を移したころは、家臣の屋敷であったが、後年、南の方は台所役所となり、北の方には米倉が造られ、宇多・北・中郷の貢税が収められた。また、火薬庫が置かれたこともあった。ここから見える本丸西面の鉢巻石垣は、1847(弘化4)年に崩落して、積み直されたものである。籾蔵門は、西二ノ丸の北側に位置し、蓮池西土塁より続く一連の防御施設であった。
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  • ⑨妙見曲輪と相馬中村神社
  • 西二ノ丸の一角にあって、藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀ったところを特に妙見曲輪と言い、相馬氏の居城には必ず設けられた。中村城内の妙見社(現相馬中村神社・国指定重要文化財)は、1643(寛永20)年に建てられた相馬地方最古の神社建造物であり、権現造りの社殿は、全体的に簡素な意匠であるが、木割は太く力強く、屋根はこけら葺である。
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  • ⑩西三ノ丸及び円蔵郭
  • 西三ノ丸北側には、家臣の屋敷や要心第とよばれた役所があり、また南側は杉山と呼ばれ、杉林があった。さらに南側には、円蔵祠を祭った円蔵郭があった。円蔵祠は、築城時に人柱となった樵夫平右衛門とその父円蔵の霊を祭った城隍廟で、1611(慶長16)年に本丸から移されたものである。
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  • ⑪北二ノ丸(お花畑)
  • はじめ西の方は、家臣の屋敷であったが、のちに蔵屋敷となった。昌胤のとき、その東に奇樹奇草を植えて「お花畑」と称する花園を造った。また東西に二門(やらい門(花畑門)・西門(籾蔵門))を設け、内堀に橋を架け本丸からの小道をつけ、遊観の地とした。
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  • ⑫北三ノ丸及び岡田館
  • 北三ノ丸は、はじめ家臣の屋敷であったが、1783(天明3)年大きな屋敷を造営して以来、たびたび藩主家の用に供されるようになった。1862(文久2)年には新殿が造られ、明治維新を迎えたが、昔をしのばせるものは前庭のみである。いまでも「御三ノ丸」と称されている。西には、岡田館(長徳寺跡・岩崎塁)といわれる岡田氏(藩主相馬氏の一族)の屋敷であった。さらに西には、妙見祠(現岡田神社)があり、周辺は、通称「館の下」といわれて、岡田氏の家臣の住居があった。
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